太田道灌ゆかりの地をまとめました。
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- 山吹の里伝説
- 山吹の里歴史公園(越生)
- 小机城址市民の森
- 石神井城跡
- 品川寺
- 太田道灌の墓、洞昌院(伊勢原市)
- 英勝寺(鎌倉市)
- 太田姫稲荷神社
- 江古田古戦場の碑
- 龍穏寺、建康寺(越生)
- 伝堀越御所跡(伊豆の国市)
- 鉢形城跡(寄居町)
- 金山城跡(太田市)
- 臼井城址公園(佐倉市)
- 川越城
- 平河天満宮、梅林坂
- 市谷亀岡八幡宮
- 稲付城跡、静勝寺(北区)
- 岩槻城址(さいたま市岩槻区)
- 熱川温泉
●山吹の里伝説
太田道灌がこの付近に鷹狩りに来た時、急雨に降られて近くの農家で蓑を借りようとした。
家の中から出てきた紅皿という名前の娘は、庭に咲く山吹の花を手折って道灌に捧げた。
道灌はその意味が理解できずに帰り、近臣に事の次第を話したところ、そのうちの一人が、中務卿兼明親王の
「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」
の歌を借りて、家に蓑がないから貸すことができないとの意を表したのだろうと話した。自分に歌心のないことを恥じた道灌は、その後、和歌の道に励んだという。
●「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」
【現代語訳】小倉の山荘に住んでいました頃、雨が降った日、蓑を借りる人がいましたので、山吹の枝を折って取らせました。その人はわけもわからずに通り過ぎまして翌日、(蓑を借りようとしたのに)山吹を折って渡された意味がわからなかったということを言って寄こしてきましたので、返事として詠んで送った歌
七重八重に(あでやかに)花は咲くけれども、山吹には実の一つさえもないのがふしぎなことです。わが家には、お貸しできる蓑一つさえないのです。
●山吹の里の碑(豊島区高田1-18)
山吹の里は、現在の高田1丁目周辺の俗称。
明治の末までこのあたりは山吹の咲き乱れる野原でした。面影橋のたもとには、右手を頬にあてた観音像の石碑があります。
●紅皿の墓
紅皿の墓と称される板碑が新宿6丁目の大聖院にある(区指定史跡)。
●泊船軒(はくせんけん) 山吹の塚
●山吹の里歴史公園
・住所:埼玉県越生町大字如意25 付近
・黄金色に輝く3千株のやまぶきと水車小屋が再現されている。
●小机城址市民の森
・本丸・二の丸・空堀・土塁などがほぼ原型で残された小高い丘。
・中世の城郭を利用した市民の森。
●太田道灌と小机城
・1478年、太田道灌がこの城の攻撃をした際、近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。(これから攻撃する小机城と子供が手習いをする小机をかけ、敵をちりぢりにすると歌っている)
そして、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約2ヶ月をかけて落城させたとされる。
道灌が歌を詠んだ松は以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(横浜市神奈川区羽沢町)する。
●太田道灌と和歌
・行軍で闇夜に利根川を渡る時、川が浅いのか深いのかが分からなかった。道灌は、「底ひなき 淵やはさわぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波は立て」(川の流れの底深い淵が風に騒ぐだろうか、浅いせにこそいたずらに波は立ち騒ぐのである。
人の心もこのようか)という古今集の歌を基に、川の音が高い場所を探させ、浅瀬を渡った。
・山から海方面に向かう際、「遠くなり 近くなるみの 浜千鳥 鳴く音に潮の 満ち干をぞ知る」(遠くなったり近くなったりする浜千鳥の鳴く声で潮の満ち干がわかる)という古歌を基に、千鳥の鳴く声の遠近で海を見ずに潮の満ち干を判断した。
平安時代から室町時代まで石神井川流域に勢力を張った豊島氏の後期の日本の城であり、長尾景春の乱で没落するまで同氏が拠った。
●太田道灌と石神井城
豊島氏は1476年に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。(太田道灌は、扇谷上杉氏の家宰)
この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する石神井城、練馬城は両城の連絡を遮断する役割を果たした。
豊島氏は当主の泰経とその弟泰明はそれぞれ石神井城と練馬城に拠り太田道灌と対峙したが、練馬城を攻撃された後の江古田原の戦いで惨敗を喫し、泰明は戦死、泰経は石神井城に敗走した。
一旦和平交渉が結ばれたが、豊島氏側が条件であった「城の破却」を実行しなかったことから、太田道灌は攻撃を再開、外城が攻め落とされたため、泰経はその夜城を捨て逃亡した。
●石神井城跡(都立石神井公園内)
・東京都指定の史跡。
・石神井城跡は、三宝寺池の南にある石神井川の谷との間の台地にある。
・城の中心部分にあたる内郭の土塁と空堀は今も残っている。
●品川寺
・大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺。
・本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられた。
●太田道灌との関わり
・道灌は「水月観音」を信仰し、自分の持仏である「聖観音」像をここに移し安置しました。
・江戸城を築き、城に移るとき、この地に伽藍を建立し、「観音堂」を「金華山普門院大円寺(きんかざん・ふもんいん・だいえんじ)と号しました。
●洞昌院
・上粕屋にある曹洞宗、蟠龍山(ばんりゅうざん)洞昌院。
・本寺は15世紀の武将、太田道灌が中興開基。
・太田道灌の墓前の左右には松の大きな切り株があるが、当時関東にいた詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が祭文(さいもん)をささげ、植えた松と言われている。
・木刀と思われるものが奉納されていて、風呂場において丸腰の状態で刺客に襲われた道灌に、せめて刀があったならという信仰からのものと思われる。
・所在地
伊勢原市上粕屋1160
・行き方
小田急小田原線伊勢原駅北口より神奈川中央交通バス「這子坂・大山経由大山ケーブル行き」か「市光前経由産業能率大学行き」の「道灌塚前」バス停より徒歩
●太田道灌と洞昌院との関わり
・1486年7月26日、主君扇谷(おうぎがやつ)上杉定正(うえすぎ さだまさ)の糟屋にあった館に招かれた太田道灌は、定正の手の者により暗殺された。
・道灌の最期については、子孫に伝わったものとして、館の風呂場で刺客に襲われ、「当方滅亡」(これでこちらは滅亡するぞ)と叫んで亡くなったとされる。
・遺体は洞昌院に運ばれ、裏手で荼毘(だび)に付されたという。
・主君の扇谷上杉家は相模国を所領していて、太田家も伊勢原の粕屋に館を持っていたので、殺された場所以外としてもゆかりはあったようです。
●太田道灌の墓 大慈寺(だいじじ)
・大慈寺は太田道灌の菩提寺で、向かいの川沿いに首塚と呼ばれる墓がある。
・道灌の叔父の建長寺長老・周厳禅師が鎌倉から移して供養塔を建てたもの。
・大慈寺所蔵の道灌公の武者絵および聖観音坐像は市指定文化財。
●五霊神社
・太田道灌と伊勢宗瑞(北条早雲)に関わる伝説が伝えられている。
明応3年(1494)9月13日、伊勢宗瑞は太田道灌の非業の死を悼み、家臣家山田伊賀守に命じて道灌の冑を納めさせ、太田三徳命として合祀した。
●七人塚
・道灌の墓の西方に、道灌に殉じた従者を葬ったという七つ塚がある。
・浄土宗。鎌倉唯一の尼寺
・当寺は、水戸中納言頼房卿の准母、英勝院尼(お梶、後にお勝となる)により寛永11年(西暦1634年)創建。
●太田道灌との関わり
・太田道灌の屋敷跡が境内敷地。
・お勝の方は、大田道潅四代の太田康資息女とされる。
・千代田区区神田駿河台駿河台1-2
・駿河台東部町会、駿河台西町会、小川町2丁目南部町会、錦町1丁目町会の4町会を氏子
●太田道灌との関わり
昔、京都の東南、山城国の一口(いもあらい)の里に一口稲荷神社があり、穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということからも「えもあらい稲荷」と呼ばれ、近郷近在の人々の信仰を集めていた。
太田道灌の姫が天然痘の病いに罹った際、この噂を聞き及び、さっそく山城国に出向き「一口稲荷」に平癒を祈願したところ、姫は全快したと伝えられている。
後に道灌が江戸城を築く時、その鬼門除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を移し奉った。
文明8年(1476年)、関東管領山内上杉顕定の有力家臣長尾景春が古河公方と結んで謀反(長尾景春の乱)
古くからの豪族に支持された古河公方、長尾影春と、太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立し、関東は二分された。
このとき江戸城を根拠地とした太田道灌は、武蔵国の領主たちを支配下にまとめて戦を有利に進める重要な役割を果たした。
哲学堂公園から野方6丁目に至る新青梅街道沿い一帯で、太田道灌、豊嶋泰経らが激しい合戦を繰り広げた。
●江古田古戦場の碑
所在地:中野区松が丘2-35(江古田公園内)
・永享の頃(1429~1441)に室町幕府将軍足利義教が敵味方の戦死者の菩提を弔うため扇谷上杉持朝に命じて建立。
・文明4年(1472)に太田道真、道灌父子によって再建。
・寛正2年(1461)堀越公方と太田道真、とその主君である上杉家との間の紛争に伴って太田道真が隠居することになり、隠居後に居住したと伝えられている。
・太田道灌像があり、太田道真、道灌父子の墓がある。
●建康寺
・太田道真が道灌の死を悼んでその菩提を弔うために建立。
・近辺には道灌橋、陣屋跡、砦などの地名が残されている。
・建康寺の右手奥に”太田道真退隠の地碑”が建てられている。地元ではこの地を道真が隠居した自得軒と伝える。
●山枝庵(さんしあん)跡
・道灌誕生の地と伝えられる。
・埼玉県越生町龍ヶ谷山王666
●龍穏寺に関わる散策コース
武蔵越生七福神めぐりコース
・鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉、扇谷上杉家の家宰太田道真、道灌父子、鎌倉公方(古河公方)方が争った(享徳の乱)
・この享徳の乱の過程で鎌倉公方足利成氏は、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった。
●堀越公方
・長禄元年(1457年)、室町幕府8代将軍足利義政が対立を深める古河公方足利成氏への対抗策として、天龍寺で僧籍にいた異母兄の足利政知を還俗させ、翌2年(1458年)に京都から関東へ正式な鎌倉公方として送った。
・しかし鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に留まる事になり、そこに堀越御所を建設した。
・古河公方は下総古河城に拠り北関東を中心に健在であったので、堀越公方と称された。
・文明8年(1476年)、太田道灌は堀越公方の軍とともに、今川氏の内訌鎮定のため駿河に出陣し、鎮圧した。
●伝堀越御所跡
・堀越公方と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所。
・発掘調査によって、池跡や遣水、建物跡が見つかっていて都風な公方の生活を知ることができる。
景春の白井長尾家は、祖父の景仲が山内上杉家の家宰を務めてから筆頭家老となり、父も家宰として勢力を伸ばした。
父・景信が死去した際、山内上杉家の家宰を叔父である総社長尾家当主の忠景が継ぐことになった。
祖父・父の功労で当然家宰になれると考えた景春とその家臣が反発し、武蔵国、上野国、相模国の多くの氏族(豊島泰経・豊島泰明、千葉孝胤、那須明、成田正等など)も同調した。
太田道灌(景春は太田道灌の妻の甥)は、和解の仲介を働きかけるが山内上杉家、長尾忠景に聞き入れられなかった。
景春は鉢形城に立て籠もり、五十子陣で山内上杉家、扇谷上杉家、長尾忠景の軍を打ち破った。(1477年)
その後4年に渡って攻防が繰り広げられたが、太田道灌の華々しい活躍により鎮圧された。
●鉢形城跡と鉢形城記念公園
・鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となった。
・城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしていた。
・鉢形城は、文明8年(1476)に長尾景春が築城したと伝えられている。後に、小田原の北条氏康の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなった。
・鉢形城跡では堀や土塁が良く残り、堀や土塁によって区切られた本曲輪や二の曲輪などの空間が現在でも確認することができる。
1478年、太田道灌が下総千葉氏を攻撃する前、金山城を訪問し、三日間滞在した。その際、歌道や軍学について談義した。
感謝した金山城主の岩松氏は、直後の下総攻めに軍勢を派遣した。
●金山城跡
・文明元年(1469)に岩松家純の命により築城された。
・山頂を中心として金山全山にその縄張りが及ぶ。
・中世の貴重な城郭で、昭和9年に国の史跡指定を受けた。
・石垣や石敷きが多用されている。従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆された。
●ハイキングコース
金山ハイキングガイド
享徳の乱の折、古河公方(足利成氏)と扇谷上杉氏との抗争に千葉氏の内紛が絡み、太田道灌は千葉自胤を助けて千葉孝胤を攻め、勝利(境根原の戦い)。
境根原合戦で敗北した千葉孝胤は、臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。
その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されている。
●臼井城址公園
●境根原合戦戦跡(千葉県柏市光ヶ丘団地)
光ヶ丘団地内に2つの小塚が残されている。
戦いに勝った太田道灌が、敵味方関係なく戦死者を弔うために埋葬した塚であるといわれている。
・扇谷上杉持朝(もちとも)が古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するため、長禄元年(1457)に家臣の太田道真(資清)・道灌父子に命じて築城したもの。
また江戸城も築城させ、古河公方への防衛線を構築した。
・当初の規模は、後の本丸・二の丸を合わせた程度と推定されている。
●川越城
・1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。
・二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館となっている。
・三の丸跡地である埼玉県立川越高等学校の近くに小高い富士見櫓跡があり御嶽神社と浅間神社が建っている。
●川越城本丸御殿
・文明10年(1478)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われている。
・徳川家康入城後、本丸修築のため平川門外に移り、慶長11年(1606)現在の地に遷座した。
●皇居東御苑・梅林坂
・文明10年(1478)太田道灌が菅原道真を祀り、梅樹数百株を植えたのでこの名があるといわれている。
・現在も梅林坂の下から本丸方面にかけて50本ほどの梅がある。この梅の木の多くは昭和42年に植えられた。
・道灌は文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請し、これを鶴岡八幡宮の鶴に対して、亀岡八幡宮と称した。
のちになって、外濠が完成すると、さらに外郭の地、市谷の稲荷社地内に遷座。
この稲荷神社が、現在の茶の木稲荷で、市谷には古くからあったもの。
・太田道灌は、足軽や農兵をゲリラ的に駆使して、敵陣を切り崩して行くという、意表をついた機動作戦を編み出した。そのころ戦場で道灌が愛用した軍配団扇が宝物として残っている。
●市谷亀岡八幡宮
・江戸時代には「時の鐘」があり、門前町も賑わいをみせ、江戸の名称のひとつとされていた。
・境内には「茶の木稲荷」もまつられている。
・神社には区内唯一の銅の鳥居(区指定文化財)をはじめ、道灌が所持し、奉納したといわれる軍配団扇(区登録文化財)や、力石(区指定文化財)、茶筅塚碑、刀工碑などがある。
・稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡。
・この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていた。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれた。
・道灌の死後、この城には孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えた。
・明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めた。
・その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていた。
●木造太田道灌坐像
・道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されている。
・像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉される。
・古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとされていたという説と
1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したという説がある。
●岩槻城址公園
・約600本の桜が咲く県内有数の桜の名所。
・自然林に囲まれた起伏の多い公園で、岩槻城の土塁が今も現存している。
・熱川温泉は、太田道灌が怪我をいやす猿の湯浴みを見て発見したのが発祥と伝えられる。
●太田道灌公の碑、道灌の湯
・伊豆熱川発展の功によって太田道灌の石造も建立されている。
・すぐ横に、故事に登場する温泉とされる「道灌の湯」がある。