新田義貞ゆかりの地をまとめました。
※目次をクリックすると目次の下部にコンテンツが表示されます。
- 新田荘(太田市)
- 新田義貞挙兵伝説地
- 小手指ヶ原古戦場
- 久米川古戦場、将軍塚
- 鳩峯八幡神社(所沢市)
- 分倍河原古戦場
- 関戸古戦場
- 洲崎古戦場跡碑
- 十一人塚
- 化粧坂
- 稲村ヶ崎 新田義貞の徒渉伝説の地
- 東勝寺跡、腹切りやぐら
●新田荘
・「新田荘」は12世紀中頃に太田市を中心に成立した新田氏一族の荘園で、新田義貞も少年時代この地で育ったとされる。
・平成12年に11ヶ所の遺跡が国指定とされた。
●反町館跡
・現在も堀に水をたたえ、かつての館の面影を残す。
・新田荘における中世の代表的な平城。
・義貞が成人後、居住したとの説があり、また市野井氏あるいは大館氏の館跡ともいわれている。
・本堂裏には、義貞の逸話を伝える「鳴かずの池」と室町時代の造園とされる日本庭園がある。
●観光コース
太平記コース
●新田義貞挙兵伝説地(生品神社境内)
・元弘3年(1333)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、鎌倉幕府を滅ぼすための兵を挙げた場所。
・生品神社境内は、昭和9年(1934)に「生品神社境内新田義貞挙兵伝説地」として国指定史跡に指定されたが、平成12年(2000)に「新田荘遺跡生品神社境内」として、面積を広げて指定された。
・境内には
新田義貞公像
義貞が旗を挙げたと伝えられる「旗挙塚」
陣を構えたと伝えられる「床几塚」
神社拝殿の前には義貞が軍旗を掲げたと伝えられるくぬぎの木の古木
が保存されている。
●新田義貞像
・1983年、新田義貞像が挙兵650年を記念して生品神社境内に安置された。
・2010年2月、銅像が盗難にあう事件が起きた。
・銅像の行方は分からず、再建を求める声が高まり、2011年に「新田義貞公銅像再建委員会」が発足。新たな銅像は彫刻家の脇谷幸正(義貞の弟、脇屋義助の子孫)が製作し、2012年5月8日に除幕式が行われた。
●小手指ヶ原古戦場
・小手指地区北野の埋蔵文化財調査センターのある一帯は、「小手指ヶ原」と呼ばれ、今から650年以上前、たびたび合戦が繰り広げられた。
・新田義貞が鎌倉幕府を倒すため兵を挙げ、鎌倉を発った幕府軍との合戦の火蓋は、小手指ヶ原で切って落された。
・新田義貞が源氏の白旗を掲げたと言われる白旗塚がある。
・近くには将兵に忠誠を誓わせた所と伝えられる誓詞ヶ橋がある。
●散策コース
四季折々の自然にふれ、狭山湖畔を歩く(西武球場前駅・小手指駅、PDF)
●久米川古戦場
・新田義貞による鎌倉攻めの際、小手指ヶ原に続いて、この地で戦いが繰り広げられた。
・周辺には新田軍が勢揃いした”勢揃橋”、勝利した軍勢が通ったと伝わる”勝陣場橋”、”将陣場橋”がある。
●将軍塚
・八国山の尾根にある小さな塚。
・久米川における戦いで、ここに陣を構え軍を指揮したことから、将軍塚といわれている。
●散策コース
野鳥のさえずりを聞きながら、古戦場ゆかりの地を訪ねる(西武園駅・遊園地西駅、PDF)
歴史のさんぽみち 徳蔵寺・正福寺コース
●鳩峯八幡神社
・新田義貞が鎌倉攻めの際に戦勝祈願に立ち寄り、兜をかけたと伝わる「兜掛けの松」、鎧を置いたという「鎧稲荷」がある。
●散策コース
野鳥のさえずりを聞きながら、古戦場ゆかりの地を訪ねる(西武園駅・遊園地西駅、PDF)
●分倍河原古戦場碑
・討幕の兵を挙げた新田義貞は、鎌倉幕府軍を打ち破りながら南下。府中の分倍河原で北条泰家率いる幕府軍を下し一気に鎌倉に攻め込んだ。
「太平記」によれば、このときの新田軍は10万、対する幕府軍はこれをやや上回ったと記されている。
・この歴史的な合戦の舞台となった分倍河原に、新田氏の子孫で元男爵新田義美氏の筆による記念碑が昭和10年に建てられた。
●新田義貞公之像
・分倍河原駅の駅前ロータリーには新田義貞の像がある。新田義貞の顔は鎌倉方面である南を向いている。
・馬上刀をふりかざす勇ましい姿の像は、文化勲章受賞者の富永直樹氏の作品。
●関戸古戦場
・所在地:多摩市関戸5丁目他
・幕府の興亡をかけて、幕府軍と新田義貞率いる討幕軍が戦った古戦場。
・現在の関戸の北側から多摩川の南側にかけての河原一帯。
・幕府軍の武将、横溝八郎、安保入道、無名戦死の墓と伝えられるものが、旧鎌倉街道沿いに残っている。
●霞ノ関
・霞ノ関は鎌倉幕府が現在の旧鎌倉街道(上ノ道)沿いに設けた関所。
・北条一族が多摩川を盾に北関東からの防衛上の要衝として、この関所を設置したと考えられている。
・東京都多摩市にある熊野神社の参道に霞ノ関南木戸柵跡(東京都指定文化財)が残っている。
●散策コース
「多摩よこやまの道」パンフレット(唐木田配水所~鎌倉街道、PDF)
●鎌倉の戦い (元弘の乱)
・相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。
・小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで勝利した新田勢は、鎌倉に押し寄せた。
・新田勢は軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂の三方から攻撃を開始した。
●小袋坂(巨福呂坂)、洲崎合戦
巨福呂坂は、赤橋守時率いる幕府勢が守りを固めた。
新田方の武将は堀口貞満、大島守之で、守時は巨福呂坂から出撃、『太平記』によれば一日に65回もの突撃を繰り返し、新田勢と激戦を繰り広げ、化粧坂攻撃の義貞軍の背後の洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢地域周辺)まで迫った(洲崎合戦)。
しかし、激戦のため守時の軍勢は洲崎に到達した時点で兵力の大多数を失っており、守時ら九十余名が洲崎で自刃した。
新田勢は攻撃を続け山ノ内(鎌倉市山ノ内付近)まで攻め込むが、幕府勢の守りは固く、巨福呂坂の突破はできなかった。
●洲崎古戦場跡碑(すざきこせんじょうあとひ)
・現在下記を記した碑が建っている。
「此の辺り古い洲崎郷に属す元弘3年(1333年)5月新田義貞鎌倉攻の折その部将堀口三郎貞満・大島讃岐守之洲崎口より攻む鎌倉方は赤橋相模守時を将として激撃し戦闘60数度遂に敗れ守時以下90人余人自刃したる古戦場なり」
●鎌倉の戦い(元弘の乱)
・相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。
・小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで勝利した新田勢は、鎌倉に押し寄せた。
・新田勢は軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂の三方から攻撃を開始した。
●極楽寺坂の戦い
・極楽寺坂では幕府方の大仏貞直が陣を張り守備していた。
幕府軍の守りは固く、坂の突破は難航したため、大館宗氏率いる新田勢の一部が稲村ヶ崎の波打ち際を通って鎌倉へ突入した。
しかし幕府勢の包囲攻撃にあい、稲瀬川付近で大館宗氏ら十一人が戦死、生き残った兵は退却した。
●十一人塚(稲村ガ崎)
・新田義貞軍の浜手の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)は大軍を率いて、極楽寺坂の切通しへ攻め込んだが、北条方の猛反撃をうけて多数が討ち死にし、総退却になった。
最後に残った11人がここで自刃してしまったと伝えられている。
ここにその11人を葬り、十一面観音の像を建ててその霊を弔ったので、十一人塚と呼ばれている。
この塚の上には大きな松の木があったが、それは枯れて、今の松はその後に植えたもの。
●鎌倉の戦い(元弘の乱)
・相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。
・小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで勝利した新田勢は、鎌倉に押し寄せた。
・新田勢は軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂の三方から攻撃を開始した。
●化粧(けわい)坂の戦い
・新田義貞の主力が率いる化粧坂の攻防戦は幕府の金沢貞将の守りが固く、義貞軍はこの方面で難渋した。
化粧坂で破る事が出来ず、義貞はこの方面での戦いを脇屋義助に任せ、自身は極楽寺へと転戦した。
●仮粧坂(化粧坂)切通し
・「仮粧坂」が史跡指定の正式名称。
・鎌倉七切通しのひとつで、討ち取った平家の武将の首に化粧して、首実検したからと言われている。
・この険しい坂道は藤沢から武蔵方面に通じる重要な道で、新田義貞が鎌倉を攻めた時、ここに軍の主力を向けたために激戦地となった場所。
・現在では春は山桜、秋は紅葉の名所として知られている。。
●鎌倉の戦い(元弘の乱)
・相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。
・小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで勝利した新田勢は、鎌倉に押し寄せた。
・新田勢は軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂の三方から攻撃を開始した。
●稲村ヶ崎の攻防戦
極楽寺坂方面から攻め込んだ大館宗氏戦死の報を受けた新田義貞は、援軍を率いて極楽寺坂に向かった。
義貞は引き潮に乗じ鎌倉西方の稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内に攻め入った。
古典『太平記』には、義貞が潮が引くのを海神に念じて海に自分の太刀を投じると、みるみる潮が引きはじめ、これに乗じて一文字に鎌倉に攻め入った、と記されている。
●鎌倉海浜公園稲村ガ崎地区
・鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の徒渉伝説で有名な岬。
・高台から富士山と江の島を望む相模湾の景観がすばらしく、「かながわ景勝50選」に指定されている。
●鎌倉の戦い(元弘の乱)
・相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。
・小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで勝利した新田勢は、鎌倉に押し寄せた。
・新田勢は軍勢を三つに分け、巨福呂坂、極楽寺坂、そして化粧坂の三方から攻撃を開始した。
・極楽寺坂方面から攻め込んだ大館宗氏戦死の報を受けた新田義貞は、援軍を率いて極楽寺坂に向かった。義貞は引き潮に乗じ鎌倉西方の稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内に攻め入った。
●東勝寺合戦
新田勢は由比ガ浜へ進入し、鎌倉へ進攻。
背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで破れ、北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。
●東勝寺跡(とうしょうじあと)、腹切りやぐら
・北条泰時建立という北条得宗家の氏寺の跡で、北条一族がここで自刃し、鎌倉幕府滅亡の地となった。
・発掘調査で、寺院の遺構が確認されている。
・東勝寺跡の北方には「腹切りやぐら」と呼ばれるやぐらが存在している。腹切りやぐらは、その名称から東勝寺での戦死者と何らかの関係があるとされていて、今でも供養会では卒塔婆が立てられる。ただ高時の首塚を伝えるやぐらは、各所に存在する。
●ハイキングコース
祇園山ハイキングコース